「クリスマス」に寄せて

「人間だけが神を持つ。今を超える力、可能性という内なる神を」 機動戦士ガンダムUC カーディアス・ビスト

今日はクリスマスです。
 
クリスマスと言えば「イエス・キリスト」、キリスト教における、絶対にして唯一の神の仔…と、クリスチャンである僕はそう教えられてきました。
はい、僕は「プロテスタント」のクリスチャンです。
ですが…もう10年近く礼拝には行ってません。教会には、ふらっと礼拝をやってない時に行ってお祈りなのかなんなのかブツブツ唱えてはいますが、クリスチャンなら当たり前に言えて当然(?)の「主の祈り」(説明は省かせてください。それなりに長いんで)も忘れてしまいました。

礼拝に行かなくなったのは、教会の牧師先生との人間関係がおかしくなったことがあったのです。
ただ、その先生に出会わなければ、僕は「洗礼」を受けてなかったし、全くの不心得者な僕でも、「いざ、なにか」あった時は「仏教でまつられるのはかなわん。キリスト教式にしてくれ」という「遺言(?)」も残してないでしょう。
ですが、反面、「神様」は信じても、そこに仕える人たちのこと、聖職者を信じられなくなりました。

なぜそうなったのか?
僕は洗礼を受けてからは言うならば「宗教的熱狂」に駆られ、いわゆる「ハイ」な状態でした。
今思うと、すごく周囲にとっては「迷惑」な存在だったと思います。
どれだけ迷惑だったか?
もし、あなたが「競馬」が好きだったとしましょう。
でも「ウ〇娘」にはあまり興味がない。
そんな中で「〇マ娘、やろう!」と熱心に誘わる。断っても「執拗に」すすめてくる。
なんていいますか、たかがゲームが嫌いになってくる。
まぁ、やり過ぎはよろしくない、ということですねw

今は「信仰を持つ人が他の信仰(カルトは別ですが)を貶めてはいけない」という考えであり、日本人が「クリスマス」も「初詣」も「お寺」も「お宮」も「八百万の神」と、まぁ色々「宗教的ごった煮」な感覚を持ち合わせているのはある種の好ましささえ覚えますし、
「キリスト教」が今一つ浸透しないことは「宗教的熱狂」を抱いてた当時は、すごく「どうして異教が崇拝されてるんだろうか?神様はただ一人なのに?」とイライラししていたのですが、今は「それもそうだな」とうまくは言えないですが、思います。

話を戻しますが、なぜ、牧師との関係がおかしくなったのか。
たくさん(個人的にはそう思います)の不信が「宗教的熱狂」に取りつかれてていた私はだんだんと冷めていき、そうするうちに、どうしても根本的なものを信じられなくなりました。それは、
「神が人間を創った」
そのことがどうしても信じられなくなってしまいました。
根本にして基盤をなす「教え」がどうしても入ってこなくなりました。
それは僕を「教会」から足を遠のかせるのに十分すぎるものでした。

さて、そんな僕に対して牧師はメールや電話を頻繁に掛けたり、送ってくるようになりました。
僕はそうとう精神的に参ってしまいました。牧師が必ず添えてくる「あなたのことを祈ってます」と言う言葉は錘よりもすごくすごく重いものに成り下がっていました。
「こんなしんどい思いを神は与えるのか?」という思いを…「まてよ、俺、神様を様を付けて呼ばなかった…」

「そうか もうそういうことなんだろう」
僕は第三者機関の力を借りて、牧師との人間関係を断ち切ることが出来ました。

そういう出来事が、僕を教会から足を遠ざけるキッカケになり、「神が人間を創られた」という考えに否定的になりました。
で、どこか宙に浮いていた冒頭の「人間だけが神を持つ」という言葉につながるわけです。
自分が今まで信じていた教えとは真逆の言葉と思います。、それはすごく「正しい」言葉と。
また、「力強いイメージを抱かせつつ、人間が持つ弱弱しい一面」を言い当ててる気がするんですね。
何と言いますか、「神様を信じない」という言葉や考えは、なんか信じられないし、「そうだ」という人は、世の中とはあまり繋がってないように思えます。
ただ、「宗教が人を苦しめ」てはいかんと思うのですよ。
では、「どうあればいい」のかは今でもわかりません。

考えること自体が「苦しめ」られてるのかな。
うーん、なにごともほどよい「距離感」が大切なんでしょうね。

では、諸君、サラダバー!

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